清水屋スポーツの歴史

創業当時
1948年清水屋洋装店が創業されました。
社名からわかるように、創業当時清水屋はスポーツ用品店ではなく、婦人服の販売をしていました。山本直平(現会長 92歳)、故山本芳江の二人で創業しました。
当時は戦後間もなく、今とは異なり物が不足しておりました。もちろん流通経路も発達していないため、週に1度岐阜県まで汽車とバスに乗り、商品の買い付けに行き、販売をしていました。それからしばらくして、市内の小中高校の制服の販売を手掛けます。この頃から少しずつスポーツ用品(サッカーパンツ)オリジナルブランド「SSS」の販売が始まりました。
清水屋スポーツの誕生
1963年に清水屋は洋装店からスポーツ店へと業態の転換をはかります。
現会長の直平は、志太中学校(現藤枝東高校)サッカー部出身で幼い頃からずっとサッカーをやってきて、起業してからも、近所の子供達を集めてはサッカーの指導をしていました。同年に日本で初のサッカースポーツ少年団を発足させます。
2014年1月には藤枝サッカースポーツ少年団50周年記念パーティーが盛大に開催されました。
藤枝市内のサッカープレーヤーは必ずお越しいただけるようなお店となりました。
1963年は藤枝東高校サッカー部が全国初優勝を果たし、その時選手たちが着用していたユニホーム、ジャージなどの用品全てが弊社のオリジナルブランド「SSS」でした。また、1966年〜1967年には、インターハイ、国体、高校選手権、全ての全国大会で優勝しました。その時も弊社オリジナルブランド「SSS」を着用していました。
スポーツメーカーが世の中に出回っていない時代ですから、当時はオリジナルで製造して販売しておりました。SSSブランドは、全国から殺到するようなヒットする商品となりました。
特に毎年3月に藤枝で開催される全国高校サッカーフェスティバルには、のちの名将となる監督がたくさんお越しいただき、SSS商品で多くのアイテムを揃えていただきました。
元国見高校サッカー部監督小峰氏(現長崎総合科学大学附属高等学校)、元四日市中央高校監督城氏など、多くの方々がお店にお越しいただき、ご購入いただきました。
SSSブランドで弊社は徐々に拡張していくことになりました。
清水屋スポーツの原点
話は戻りますが、スポーツ用品店をオープンした当時、地元の方々に大変驚かれました。なぜなら、当時日本で5本の指に入る売上を誇る会社さんの向かえにショップを構えたからです。(笑)
「常に挑戦」これが弊社創業者の指針です。高ければ高い壁の方が登った時、気持ちが良いものだ。という発想から競合店の向かえに出店しました。
変化対応・時流適応・現場主義
競合他社の向かえに構えたこともあり、目の敵にされました。当時はミズノ社が超一流メーカーで、営業に行っても「ミズノが扱えないなら、清水屋から買うものがない」と門前払いをされていました。ミズノが入荷できるお店であれば成功すると言われていた時代です。そこで、オリジナルブランド「SSS」と、新参者の我々にも仕入れさせてくれるスポーツメーカーさんで勝負をしました。弊社と取引をしてくれたのは、オニツカ(現アシックス)ヤンガー、ミツナガ、モンブラン、ミカサでした。また当時目新しくて、まだ日本では認知されていないメーカーがありました。それは、アディダスとプーマでした。
当時、幼い頃から清水屋に通っていた藤枝出身のサッカー日本代表の選手がたくさんいました。その選手達が海外遠征に行った時の情報を随時直平は仕入れていました。つまり世界最先端のサッカー情報が清水屋スポーツにはあったのです。その時からアディダス、プーマが旋風を巻き起こすという予感がありました。
1974年西ドイツでワールドカップが開催されて、弊社会長直平は自分の仮説の検証のため西ドイツまで視察に行きました。西ドイツの町を歩いていると、アディダス、プーマの看板がずらりと立ち並び、多くの人々がそのメーカーの商品を着用していました。
そこで、プーマ、アディダスは世界のサッカーの最先端だ!と確信し、仕入れることになりました。
これが、功を奏し業績は一気に伸びました。
自分の目で見て確かめ決断をする。答えは現場にあるという現場主義発想がこの時培われます。その頃からのお付き合いで、アディダス、プーマ、アシックスさんとは親しくお付き合いさせていただいております。ミズノさんとも後に取引が始まり、今でも良好な関係を築いています。
それから2年後1976年に長男章(二代目現社長)が東京の大学を卒業して、実家清水屋スポーツに戻ってきました。
清水屋スポーツと言えば、サッカー
1980年代総合的なスポーツショップから、サッカー用品を中心としたサッカーショップへと進化していきました。お店には毎日のようにサッカー少年、その親御さん達でいっぱいでした。地元の藤枝東高校、藤枝北高校、静清高校のサッカー部員達が部活帰りに通ってくれておりました。「あ〜でもない、こうでもない」という永遠に終わらない会話を毎日のようにしていました。(笑)監督の愚痴(笑)恋愛、サッカーについての質問、時には人生相談、様々な話をしました。当時の高校生が今では父親になり、自分のお子さんのサッカー用品を買いにきてくれます。
ゴン中山さんも藤枝東サッカー部時代頻繁(厳密に言うと、ほぼ毎日)に来てくれて二代目章が食事中は店番をしてもらうこともありました。(笑)とにかく活気に溢れていました。
2014年正月久々にゴン中山さんと会い写真を撮る、二代目章。
二号店のフットボールギアの誕生
1992年。バブル崩壊で日本は急激に元気がなくなっていきました。
しかし、清水屋スポーツはその真逆を走ります。藤枝市の駅の南に、60坪二階建てのサッカー専門ショップ(フットボールギア)を出店しました。この店舗は、セリエAの名門ACミランのホームスタジアムである、サンシーロを意識したデザインで今でもそのデザイン性は最先端をいっていると自負しています。
オープン初日は行列ができるほど盛況でした。そして毎週商品を大量に仕入れていました。でもすぐに売り切れてしまいました。
1993年にはJリーグが開幕。Jリーグバブルで更に売上を伸ばします。当時スポーツショップ単店では、県内でも指折りに入るくらいでした。
1998年日本が初めてワールドカップ出場を果たし、第二次サッカーブームの到来。日本代表ユニホーム、海外のユニホームが飛ぶように売れました。
2002年日韓ワールドカップ。その時は日本中がサッカー一色になりました。お客様はどんどん増えていきました。
光と影
フットボールギアの発展により、弊社はどんどん売上を伸ばしました。と思いきや、本店と外商の赤字が続き、フットボールギアの利益で賄っていたため、財務的には厳しい状況でした。また、大型店の進出により、お客様がどんどん離れていきました。
そして、運命の日をむかえます。
2008年フットボールギア閉店…
これは弊社にとって大打撃でした。なぜなら、この店舗が清水屋スポーツ全体を支えていたからです。今だにお客様から「なんでフットボールギア止めちゃったの?すげー好きだったのに」と言われます。
フットボールギアの閉店により、弊社の経営状態はどんどん悪化していきました。
三代目剛が戻ってくる
2店舗から1店舗へ。社員も減りました。まさにどん底の状態。
満身創痍な状態がしばらく続きました。
2011年、三代目剛が清水屋スポーツに戻ります。ここから清水屋スポーツは息を吹き返します。
剛は大手コンサルティング会社船井総研で5年勤めていました。中小企業の多くの成功事例を目の前で見てきました。成功している企業が取り組んでいることは、「自社にしかない強みを生かす」ことでした。そこで、清水屋スポーツにしかないものを徹底的に探しました。それはこれまで伝えてきた歴史に答えがありました。
60年以上の歳月を経て、培ってきた顧客(清水屋のファン)
情報を形に変えて、世の中に価値を提供する
変化に対応し、挑戦する
スポーツ業界の異端
皆さんの家にスポーツウエアはありますか?おそらくないという方はほぼいないでしょう。それは、アイテムが一巡していることになります。よほどの理由がない限り、お客様はスポーツウエアを買いません。これまでは、何もせずに商品を大量に仕入れて、大きな売り場を作れば、繁盛していました。弊社もかつてそういう時代がありました。しかし、今はそんな時代ではありません。
大量に仕入れて、安く販売しても、売れない時代なのです。
ちなみに、安くするという事=自分達の価値を下げる
です。
価格を下げることは誰でもできます。それは手抜きなのです。これまでスポーツ業界は、手抜きをしてきたのです。そして今時代のせいにしている風潮があります。不景気だから?少子化だから?
できない理由をあげるのは誰でもできます。そこには未来はありません。
逆に、価値を上げるという発想を持っている方が少なかった。
弊社は価値をあげていきます。それは価格を上げるという意味ではありません。
お客様が欲しい情報を伝えるという付加価値を加えます。かつて、創業者がドイツに行き、アディダス、プーマを日本に広めた事。二代目章がイタリアまで行き、ミランのスタジアムを意識して、日本で初めてのサッカーショップをオープンさせたこと。
今でしたら、剛のこれまでのサッカー経験×サッカー選手の情報×超一流指導者のノウハウ×コンサルティング能力×経営力
からの独自の「サッカー上達法」を伝えることができます。
自分達にしかできないことをとことん追求して、世の中に価値を提供していこうと思います。
清水屋スポーツはスポーツ業界の異端児です。

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